父が亡くなった際に、川柳かつしか吟社様発行の「句会吟 第四十五集」に追悼コーナーを設けて頂きました。

今回、発行者の田中八洲志様にご許可を頂き、ここに掲載をさせて頂きます。

ザ・川柳  島田 駱舟様

「虚構こそが真実を表せることもあります。虚構の楽しさって駄目ですか?」

 これは十四年前に私が山本桂馬さんにインタビューの際に、桂馬さんがムッとした表情で答えたものです。私が桂馬さんに「桂馬さんの句の面白さは虚構もありますね」と聞いたときでした。

句会場ではいつも笑顔を絶やさず、箪笥職人とは思えない如才なさで桂馬さんは人と接していました。ですから思わず背筋が寒くなりました。無礼千万の質問だったのでしょう。しかし、寛大な桂馬さんはその後の質問にも丁寧に答えてくれ、無事にインタビュー記事が出来上がりました。

 達吟家の加茂如水さんをして「ザ・川柳」と言わせた桂馬さんの川柳は、披講されるたびに句会場が笑いに包まれます。日常頻繁に使われる言葉だけを使い、定型を守り、リズムを崩さず、とここまではかなりの川柳家も達成可能な作り方です。桂馬さんはここからがすごい。この上に聞き手、読み手が納得しながら笑えるという凄腕を発揮します。言葉も仕立ても平明ですから、誰でも出来そうに、やってみるといかに難しいものかがよく分かります。

 なぜ面白く詠めるのか、という私の質問に「小学生の頃から家にあった落語全集を読んでいて、話はどう作れば面白いかは分かっていた」と気負いもなく答えた桂馬さんでした。

 さらに、「集まりがあると親父が人を楽しませていたのも影響している。句会へはお金と時間を掛けて皆さんが来るんだから、楽しくなきゃつまらない」というサービス精神も抱いていたから益々すごい。技術と営業両方のセンスが抜群だったと言えます。

 桂馬さんの出身吟社はきやり吟社系の千草会でした。基本的には伝統系ですが、菊池俊太郎さんや普川素床さんなどの革新系の作家も在籍していた不思議な結社でした。私も何度かお邪魔しましたが、残念ながら現在はありません。いろいろな句風の作家が在籍したためか、桂馬さんものびのびと作句活動が出来、「ザ・川柳」に到達したのではないかと思います。桂馬さん自身も「会の先輩たちも私の句を直せとは言わずに許容してくれました」と述懐しています。

 インタビュー当時、桂馬さんは心臓と脳に若干の異常がありましたが、「この先は短い」などと冗談を飛ばせる程度でした。その後しばらくして、句会を時々休むようになり、三年ほど前から全く姿を見せなくなりました。

 句会を休み勝ちになってから、「鎮痛剤に川柳はいかが」という句集を出版、私もいただきました。ところが、なんと、「島田駱舟様」と、手書きの文章が書かれた一ページが巻頭に製本されていたのです。何百冊を印刷したかは分かりませんが、私用にわざわざ製本されたのです。これには感動を超えて絶句あるのみでした。というのも、インタビューでは大変失礼なことを言ったにもかかわらず、特別扱いしてくれたからです。

 その中に左記の文章がありました。

 【この冊子(句集)を配ったことで、いろいろな方から手紙を頂きました。その中に「私の周囲にもあなたのファンは多いのですが、こういう川柳を作るとか、選ぶとかは別です」と書かれているものがありました。(中略)私など「これだって川柳だ」と主張するのがやっとです】

研ぎ澄ました普通の言葉を使って、面白い作品を作る、これが桂馬さんの信条でした。「楽して作っていない」とインタビューの最後にポツリと話した表情が印象的でした。

 桂馬さん、そちらでも笑わせていますか。

洒脱な川柳の達人 山本桂馬さんに学ぶ  きやり吟社 竹田 光柳様

昨年七九歳で帰天された桂馬さんとはかつてかつしか吟社の例会参加で親しくさせていただき、かつてきやり誌に「川柳旅支度」を掲載している時に楽しく読んでいるとの激励をされて、時折いろいろな事をお聞きしたりしていました。毎年頂く年賀状には「桐箪笥削り直しの三浦屋」の宣伝とともに必ず川柳が一句添えられていました。

 羊の毛脱がせるように刈り取られ 十五年

 クレヨンで描く虎ども笑ってる  二二年

 渋滞に欲しいと思う筋斗雲    十六年

 後の平成一六年申年の句を改めて見直すと、今年はどういう句を考えていらしたのかと、いろいろ思いを馳せます。披講される句があの独特のユーモアで句座を沸かせ、呼名が桂馬となり二度笑いを誘うのも、桂馬さんならではの妙技でした。詳しい履歴は存じ上げませんが、千草会に所属され、台東、かつしか、江戸川等で広く活躍されていたようで、きやりにお出になる事はなかったのですが、現代川柳の楽しさを教えてくれた方の一人と感謝しています。

 亡くなられた後、句集「鎮痛剤に川柳はいかが」があると聞き、土田宏虫さんにお借りをして拝見したらまさにユーモア川柳の宝庫でした。すべて課題吟で句の数は約二千句、それを六二の項目にまとめて表記されています。手作りの句集で巻頭の前書き三頁、後書き一頁に桂馬さんの発刊意図が書かれています。目次も索引もないので資料としての活用が不便で残念と思っていたら、項目の索引資料を宏虫さんがお持ちで早速コピーしてくださった。出版後、山岡涼山さんが作成されて配布されたとのこと。その涼山さんも今は鬼籍にはいられています。

 ここに改めて句を紹介いたしますが、上が項目、下が課題です。

           ○

家族  心配を重ねて親をボケさせず 怪我の功名

妻   神様に間違いもある妻と僕    纏める

恋   結婚を餌にするのは妻で懲り  アタック

金婚式 無抵抗主義で金婚まで飼われ    飼育

子供  赤ん坊のうちは涎も褒められる ぬるぬる

顔   脳味噌を通さず動く妻の舌     軽率

老人  爺さんが死んで婆さん若返り  さばさば

酒   まだ妻にもの言えるほど酔ってない 半端

言葉  幸せにするよが嘘のつきはじめ   最初

政治  民放も家裁も妻の肩を持ち    強いね

病気  東大へ僕は診察券と行き  困ったもんだ

機器  パソコンのマウスにまでも侮られ  機能

絵   絵で見ると地獄の方が面白い   眺める

職人  一鉋削ってみたい妻の顔      削る

猫   妻撫でてみても猫ほど喜ばず    触る

           ○

 どの句を見ても人生の達人を窺わせる。課題が与えられたとき、どういう句想で仕立てるかが勝負の世界だけに、下の課題を改めて見ると、桂馬さんにとっては日常茶飯事が原点になっているのが分かる。改めて課題の索引に挑戦して桂馬さんの手法を学んでみたい。

桂馬さんを偲んで  江戸川吟社 福井 勲様

 平成二十三年三月の江戸川が桂馬さんの最後の句会になりました。当時は二年経ったら復帰できると聞いていましたので、今か今かと待ち望んでいました。

 平成二十七年度十一月に桂馬さんは帰らぬ人になってしまいましたが、句集「鎮痛剤に川柳はいかが」の二作目に意欲を燃やされていたので、心残りもいかばかりかと思います。

 桂馬さんのいらっしゃる句会は特に楽しかったです。桂馬さんの句が詠まれると、ご本人の呼名の前に場内全員が桂馬さんの句だと分かります。時には誰かが「桂馬!」と代わりに呼名することもありました。

 私の母は川柳には全くの門外漢で、川柳誌など見向きもしませんが、桂馬さんの句だけは面白いと読んでくれます。そして「これくらいなら私にも作れそう」などと言います。これに触発されて私も桂馬さんの句を真似ることにしました。しかし、色々な句誌から桂馬さんの句を拾ってノートに整理するなど、私なりに努力はしてみたものの、木に竹を接いだような句しかできませんでした。桂馬さんもご自身の創作ノートを貸してくれるなど応援してくれましたが、どうしても上手くいきませんでした。簡単に見えても職人芸の桂馬流、真似しようとした浅はかさに気付かされるばかりでした。

 桂馬さんの句には奥さんがよく登場します。皆さん興味しんしんで、一度拝見したいとか、中には夫婦仲は大丈夫なんだろうかと心配する向きもあったようですが、私には句の中から夫婦愛がじわじわと滲み出しているように見えます。奥さんを詠んだ句をおもいだすままに列挙してみます。

 こんなことよその女にしないでね

 お隣の旦那が妻の理想像

 この妻が五月みどりと同い年

 よし今が妻に謝るタイミング

 当たっても痛くないもの妻に投げ

 花抜いて今度の妻は茄子を植え

 腐れ縁妻はボランティアのつもり

 泣き出すともうじき終わる妻の愚痴

 川柳のネタに困らぬ妻を持ち

 誰が冷たいわたくしにしたんです

 毎日がスリル結婚してごらん

桂馬さん安らかにお休み下さい。

かつしか吟社の桂馬さん  土田 宏虫様

 桂馬さんの句に初めて出会ったのは平成十二年二月上野徳大寺での「きやり吟社、二月句座」でした。『挑戦者ファイトマネーの差にも耐え(題、我慢)』という投句に、文台の昌波さんが「桂馬」と呼名したのを聞いて「なんと愉快な名前だナー」と記憶に残りました。そして当のご本人を知ったのは、これも初めて参加した平成十二年三月、宝町公民館でのかつしか月例句会の場でした。『手を握りかけたところへお茶がくる(野暮)』『シリコンの胸だけ若いときのまま(揺れる)』などに「桂馬!」なる呼名、どんな人かとキョロキョロ見回しましたが六十余名の参加者の中からみつけるなんて至難の技でしたので、帰りに某氏に教えてもらって、遠くからお顔を拝見して納得した記憶があります。

 その後、毎月の句会でお会いすることとなり、挨拶し、言葉を交わすようになりましたが本当に親しく川柳の話、健康の話、暮らしの話などをするようになったのは、平成十七年6月に氏がかつしか吟社同人になられ、句会終了後一緒に堀切菖蒲園駅側の五九一そばへ行くようになってからでした。いつもビールをコップ2〜3杯でしたが皆にニコニコと終わりまで付き合ってくれました。

 又、お仕事でしばしば相模原へ来られたそうで、私が永年住んでいる隣町、東京都の最果ての地 町田のことをよくご存知なのにはびっくりしました。

 平成二十年春でしたか、舎人ライナーが開通して東京のチベットも少しよくなった、と喜んで私の乗り物好きの好奇心に見沼公園まで付き合ってくれたのが昨日のことの様に想い出されます。

 氏の川柳に於ける活躍については今更述べるまでもありませんが、一貫して人間愛に溢れていることです。ご本人は奥様と一緒に毎月寄席へ通っていると言っていましたが落語のみならずいろんな芝居、書籍等を紐解かれていた様です。そしてそれらがの鎮痛剤の原材料になっていたのだと思います。勲さんのエッセイにある『鎮痛剤に川柳はいかが』の続編を見られないのが残念至極、痛恨の極みです。

 絶好のネタにされていた奥様に昨年十一月のお通夜でお会いしました。氏が在宅療養になってから何度か電話でお話をしましたが、お会いした夜も、気丈に応対していただきました。が、早過ぎるご逝去にさぞご無念だったでしょう。心からお悔やみ申し上げます。

合掌

最後に

皆様より、このような追悼文を頂いたときには家族一同大変感激いたしました。大変遅くなりましたが、改めて御礼申し上げます。

また、貴重なネタ元であった桂馬の妻である私の母ですが、おかげさまで元気に暮らしておりますことをご報告させて頂きます。

令和二年十月 山本 亘